柳の下に猫は2匹いない

戦前日本映画史ネタの覚え書き

入江たか子をめぐる五人の男

入江たか子映画女優』(学風書院 1957年)

入江たか子は1927年のデビューから一躍スターの座に上り詰めた。
華族のお姫様という話題性はマスコミの注目を集めたが、当時の東坊城家は没落貴族でありひたすら家族を養うために選んだ女優という道だった。
本作は貧困、失恋、結婚の失敗、病気、そしてスターの座からの転落をつづった入江たか子の半生記である。
描かれる映画界の内幕も庶民が抱く華やかなイメージとは程遠く、俳優の女性関係や映画会社の策謀で占められている。
入江はその持ち前の美貌で多くの映画人を虜にしたが、彼女を取り巻く男たちの中でも特に際立つ5人を紹介しておく。

東坊城恭長

入江たか子の兄、東坊城恭長が映画界入りしたのは1924年のこと。
同じ華族だった小笠原明峰主宰の小笠原プロを手伝っていたのがきっかけで日活に入社する。
東坊城家は父であり当主の徳長の死去と、それに引き続く関東大震災の被害により生活苦に陥っており、残された3人の兄が母と弟妹を養わなければならなかった。
恭長の映画界入りは華族出身だからなのか高額の月給で、そのため恭長には〈身売り〉の意識が多分にあったようである。
子爵の御曹司が活動役者になったというニュースは新聞紙の紙面を賑わせた。
まだ活動役者に対して偏見が強かった当時、身内の者から活動役者が出たことで入江は友人に対して卑屈な気持ちになりがちだったが、それを励ましてくれたのが文化学院の同級生の伊達里子だったという。
入江は3人の兄のうち、この恭長と最も仲がよかった。

 この頃もう一つ私を憂鬱にしたことは恭長だった。大好きな兄であり、一ばん私を愛してくれた兄ではあるが、或夜一緒に枕をならべてねている私に迫って来た。
「英ちやんを他の男にやりたくない。僕が英ちやんを女にするんだ。」
 そして子供の出来ない方法があるから心配しなくてもよいといった。肉親に魅入られるほど美しい私であったろうか。勿論私は拒絶した。このことで私は急に恋人がほしくなった。どこかにその人がいる筈だ。私は早くその人を探し出して結婚しなくてはならない。

恭長は実の妹である入江に肉親以上の愛情を抱いていたことが随所で語られている。
最も衝撃的なのは美しい妹を他の男の手に委ねたくないあまり、実の兄でありながら肉体関係を迫るくだりだろう。
父の告別式の日、恭長に突然唇を奪われた入江は〈兄も父がなくなって淋しいのだ。これも妹に対する愛情かと思うと別に非難の言葉は出なかった。〉と書いているが、幼き日の追憶とはいえ少々感覚がズレている気がする。

片岡千恵蔵

恭長に迫られ、結婚を考え出すようになった入江に片岡千恵蔵プロダクションの作品への出演の話が舞い込む。
入江はそこで初めて片岡千恵蔵に会うが、初印象は〈あんまりきれいなので私はただポーッとしてしまった。〉とほぼ一目惚れのような状態だった。
作品は伊丹万作監督の『元禄十三年』(1931)、入江は千恵蔵の妻の役を演じた。
入江は千恵プロでの仕事を〈私の映画生活三十年のうちでこの「元禄十三年」の撮影中ほど毎日々々を楽しく仕事したことはあとにも先にもなかった。〉と述懐している。

千恵蔵さんだけが私の心の中のすべてを占めていた。私は少女の頃からどこかにきっと自分を心から愛して呉れる人がいて、今に屹度自分の前に現れてくれると固く信じていたが、千恵蔵さんこそその人だったのだと思った。そして夢の中の騎士のように私の心のすべてを奪ってしまっていた。

入江にとって千恵蔵はまさに初恋の人だった。
撮影所仲間のあいだでも入江と千恵蔵の関係はすぐ噂の種になり、新聞や雑誌にも結婚話が書き立てられた。
しかし実際はラブシーンの撮影でわざとカットの声を掛けなかったり、宴席の夜に千恵蔵をけしかけて寝室に乱入したりと、煮え切らない態度の二人を周りがなんとかしてくっつかせようと骨を折っていたようだ。
千恵蔵も入江に対して恋心を抱いていたが、売り出し中の千恵蔵の恋愛沙汰ということで人気への影響が心配され、結婚は実現しなかった。
そして翌年、入江は恭長から逃げるように俳優の田村道美と結婚することになる。

中野英治

1932年、入江ぷろだくしょんを設立した入江は第1回作品『満蒙建国の黎明』(溝口健二監督)の撮影のためのロケーション旅行に出かけている。
この時期は映画スターの独立プロダクション設立が最も盛んだったが、女優でしかも現代劇の独立プロは日本初の試みだった。
入江が代表とはいいながら内実は恭長が白井信太郎と計ってできたものであり、設立に際しての詳しい事情は何も知らされなかったらしい。
ともあれ、手始めに満州での傷病兵慰問を終えた入江一行は大連に向かい、そこで溝口健二を筆頭とする映画のロケ隊と落ち合う。
この一同の中に中野英治がおり、本作で入江の相手役をつとめることになっていた。

 船中第一夜、英ちやんは突如として私の部屋にちん入し、深刻に出て私を圧倒しようとした。(中略)いきなり襲いかかって、いろいろ手をかえてせめたてる、私は必死に抵抗する間にも何度か唇はうばわれる、首筋にも押つけられる。もしあの時私が少しでも飲んでいたらとても処女を守ることは出来なかったろうと思う程、間断ない波状攻撃、英ちやんの秘術をつくしての攻撃、じゆうたん爆撃、そのせめ方はおぼえていないが、とにかく「必ず僕のものにしてみせるのだ」と、英ちやん得意の活劇映画のクローズアップよろしく、眼をつりあげて迫る。

中野は映画界一のドン・ファンとして知られるほど女性に手が早いことで有名で、もれなく入江もターゲットにされていた。
なんでも日本を発つ前に入江を女にできるかどうか悪友と賭けてきたというのだから恐ろしい。
これが現代だとまず俳優生命が絶たれるレベルの強姦未遂事件になっていたに違いない。
しかし、この本が出版されるまで約30年間公にされなかったことは入江の性格にもよるだろうが、当時の女優(ひいては女性そのもの)の立場の弱さ、映画界の闇の深さを物語るものだと思う。
もっとも南部僑一郎が〈入江たか子満州で中野英治から女にされた〉とまことしやかに吹聴していたらしいが、中野にも入江にもさして人気に影響が出なかったところをみると単なるゴシップの域を出なかったのだろう。
入江にしても酒が入っていたら危なかったほどの危機であったにもかかわらず、中野を糾弾するといったような調子は文章からは窺えない。
あまつさえ〈こういうことさへなければ気さくな愉快なお友達で楽しく一緒に仕事が出来る相棒なのだ〉とフォローまで入れている。
中野の愛人であった若山千代に対しては不愉快になりながらも〈ドンファン中野英治の満州旅行中の貞操をまもってあげたことを若山さんに感謝してもらいたい〉と締めくくっており、時代とはいえ感覚の違いに愕然としてしまうのだが、入江が特別呑気なのかもしれない。
ところで、中野の全盛期の映画がほぼ鑑賞不可能となってしまった現在では、入江のいう〈英ちやん得意の活劇映画のクローズアップよろしく、眼をつりあげて迫る。〉という例えが今ひとつイメージできないのが残念である。

菅井一郎

さて、そんな中野英治の魔手(?)から入江を救い出したのが菅井一郎だった。
菅井は入江ぷろの創立に参加しており、それ以来ずっと入江の陰となり日向となって支えてくれたのだという。
そもそも、最後のロケ地で入江がホテルの部屋に干していた下着を中野にとられそうになった前哨戦ともいえる事件から菅井は助け舟を出している。
〈「何事ですか。」と両方に恥をかかせまいととぼけた声をかけて下さった〉と入江が書いている一文は、そのまま映画での菅井の声を思い起こさせる。
入江が中野に暴行されそうになった後日も、中野に泣き落としを食らい気持ちが揺らいでいるところを〈おひいさんもう遅いから行きましょう〉と絶好のタイミングで現れ入江を救っている。
入江はこの満州旅行中に菅井から翡翠の指輪をプレゼントされ、田村との結婚後も大事に使い続けていた。

 当時撮影所の雰囲気は俳優同志の恋愛は『日常茶飯事』になっていたので、私はそれに対するレヂスタンスとして、私が処女を捧げる人は屹度どこかに居るのだ、その人に会いさえすれば、私は本当に好きになるにちがいないと思って身を持していたが、満州ロケで菅井さんの親身の大きな愛情に度々接して、もしこの菅井さんが私に迫って来られたらどうしょうか、菅井さんには断れないかもしれないと、そんな事を考えたものだ。

全盛期の入江たか子にここまで言わせてしまう菅井一郎という男、とても『瀧の白糸』(1933)で入江を引きずり回しいたぶっていた場面からは想像ができないほどの男前っぷりである。
後年、化け猫映画への出演で「化け猫女優」のレッテルを貼られてしまった入江を励まし、慰めてくれたのも菅井だった。
入江は菅井を恋とはいえないまでも迫られれば身を捧げかねないほどに頼もしく思っていたのは確かだが、菅井は入江のことをどう思っていたのだろうか。

岡田時彦

入江が1933年に岡田時彦と組んだ『瀧の白糸』(溝口健二監督)は大ヒットを記録し、入江の生涯を通じての代表作となった。
その前年には鈴木傳明、高田稔らとともに参加した不二映画社が解散し、岡田は新興キネマに移籍している。
入江ぷろも新興キネマの傘下に入っており、入江の相手役にするための岡田の入社だったという。
入江と岡田とは1928年、日活時代に『母いづこ』(阿部豊監督)、『激流』(村田実監督)で共演している。
岡田とのコンビは評判を呼び、溝口は次作の『神風連』(1934)でも二人を組ませる予定だったが、岡田は撮影に入る前に病に倒れそのまま帰らぬ人となった。

 「僕はたかちゃんが日活に入った時から好きだった。『母いづこ』で始めて共演した時、よっぽどこの気持をうちあけようと思った。」
 私はこの言葉を聞いた時とても困った。心が動揺しかけたからだ。
「しかし、僕は過去を持っているので言えなかった」と声を落された。
 私はとても淋しかった。岡田さんなんで早くそれを言って下さらなかったの……と心の中で岡田さんをなじった。

またある時は楽屋で岡田に〈入江さん手紙書いてるの? 道ちやんはいゝな!〉と声をかけられ、入江は動揺のあまり岡田に出すコーヒーに砂糖を入れ忘れたと書いている。
当時岡田はすでに妻帯者で愛人(岡田茉莉子の母親となる田鶴園子)があり、入江は田村と内縁関係に入っていた。
少なくとも入江は岡田が独身ではないことを知っていたはずだし、曲がりなりにも田村という相手がいるにもかかわらず砂糖を入れ忘れるほど動揺するのは迂闊すぎる。
もっとも、岡田が女性を口説くのは病気みたいなものだそうだから入江に対してもどれだけ本気だったかわからない。
岸松雄は〈いくら華族の出だからといって、男を見る目があまりになさすぎる。そこが入江らしいのかも知れないが。〉*1と評しているが、あらゆる俳優仲間から一度は口説かれ、共演することが俳優のステータスになったとまでいわれる入江の結婚相手が、自身の人気に傷がつくことを恐れて籍も入れてくれず、妊娠すれば秘密裏に堕胎させる男だったことを考えてみれば同意せざるを得ないのである。

*1:岸松雄『映画評論家 岸松雄の仕事』(ワイズ出版 2015年)