柳の下に猫は2匹いない

戦前日本映画史ネタの覚え書き

鈴木傳明と田中絹代は不仲だったのか

田中絹代が女優としての名声を高めはじめたのは1927年、『真珠夫人』(池田義信監督)に栗島すみ子の娘役で助演してからだ。
松竹の大幹部であり大スターの栗島と共演することは当時の女優の目標になっていた。
それまでの絹代はお世辞にも美人とはいえない容貌といかにも子供子供した年恰好(実際子供だった)が上層部の不評を買っていたが、五所平之助の強い要望により同年に『恥しい夢』で初主演を果たす。
この初主演の話が舞い込んできたのは『真珠夫人』への出演が決まった直後で、絹代を主演に起用することに難色を示した城戸四郎を説き伏せた五所の奔走の結果であった。
下町の芸妓を演じた絹代の初主演作は無事好評を博し、いよいよ『真珠夫人』がクランクインするが、ちょうど前後して清水宏との"試験結婚"と称した同棲生活が始まっている。
この年の7月には大部屋から準幹部に昇進しており、絹代にとってはいい意味でも悪い意味でも記憶に残る年になっただろう。

さらに翌年の1928年、絹代は『近代武者修業』(牛原虚彦監督)で鈴木傳明の相手役に抜擢される。
傳明は絹代がデビューする5ヶ月前の1924年3月に日活へ入社し、早くも現代劇の二枚目スターとして君臨していたが、当時の看板女優だった梅村蓉子を日活に引き抜かれた松竹が、その意趣返しに傳明を引き抜いた。1925年のことである。

「伝明はスポーツマンで六尺豊かな男性美でしょう。絹代ちゃんは小柄で少女っぽい可憐型でしょう、このアンバランスをね、うまく利用しようと思ったんですよ。当時、アメリカに、チャールス・ファーレルという大きな俳優がいましてね、これとジャネット・ゲーナーという小柄な女優が組んで、人気を呼んでいたんですよ、わたくしはこれを思いだしました。清水と結婚して色気も出てきたし、伝明との組み合せがいいと思ったんですが、所長は反対なんですね。絹代は可憐ではあるがスターになるガラではない、伝明の相手には不足だと。わたくしは、絹代は大スターになる資格があるとゆずらない、言いだしたんだからゆずれません、いや、なれない。いや、なりますとケンカですよ。よしそれじゃ賭けようってんで、千円だ、よろしいとこっちも受けて立つ。この勝負、結局わたくしの勝ちになりましたけど、所長は約束を破って、千円はくれませんでした」

新藤兼人『小説 田中絹代』(文春文庫 1986年)

牛原の目論見は見事に当たり、傳明・絹代・牛原のトリオ作品はしばらく松竹のドル箱になった。
以下に傳明と絹代の共演作品を列挙しておく(相手役でないものも含む)。
牛原監督作品には特に*印を付した。

1927年
1928年
1929年
  • 『彼と人生』*
  • 『大都会 労働篇』*
  • 『山の凱歌』*
  • 『鉄拳制裁』(野村浩将監督)
1930年
  • 『進軍』*
  • 『大都会 爆発篇』*
  • 『若者よなぜ泣くか』*
1931年

 参考:「田中絹代 出演作品年表」下関市立近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館
http://kinuyo-bunka.jp/kinuyo/appearance/stage1920.html(2019.09.14参照)

全14作品のうち10作品が牛原監督作品であり、いかにこのトリオがファンの支持を集めていたかがわかると思う。
傳明・絹代映画の人気は、戦後の吉永小百合浜田光夫や、三浦友和山口百恵などといった青春映画の源流といっても過言ではないだろう。
牛原は1930年の『若者よなぜ泣くか』を最後に松竹を去り、翌年の1931年には傳明の不二映画事件が勃発、ここで傳明と絹代のコンビ時代は幕を閉じることになる。

一部の監督を除いた上層部の人間やマスコミからはその存在を軽んじられる向きがあった絹代だが、それはコンビを組んでいた傳明も同じだったようだ。
古川薫は傳明が絹代をこき下ろす文章を映画雑誌に書く、と記者に漏らしたことがあったと書いている*1
コンビを組んだ当初から二人には芸歴の上でも人気の上でも格差があり、飛ぶ鳥を落とす勢いだった傳明からすれば、絹代はポッと出の女優としか映らなかったのだろう。
当時の傳明と絹代の関係性は、新藤兼人による牛原へのインタビューにも窺うことができる。

 「寒くてね、焚火をしながらロケをやったもんですが、絹代ちゃん、焚火のそばへ寄ってこないんです、伝明君のうしろに控えて、火のそばへ寄ろうとしない。こっちは風邪でもひかれちゃ困るし、寄んなさいと言っても、はいと答えるだけ。山の娘なんだから素足なんですね、裾の短い着物を着ているから脛がまるだしなんです。すごい意気ごみなんですね、伝明君のいうことはなんでも、はいはい、と聞いてました」

新藤兼人『小説 田中絹代』(文春文庫 1986年)

以後も着実にキャリアを積み重ね、松竹映画にとどまらず日本映画の重鎮となっていった絹代とは正反対に、傳明の人気は松竹退社を境に陰りを見せはじめる。
その頃には傳明も30代半ばになっており、これまでと同じように純真無垢な青年を演じ続けるには無理があったといわざるを得ない。
盟友ともいえる牛原は映画研究のために各国を渡り歩いて精力的な作家活動はしていなかったし、1936年に主演(実質中川三郎が主演のようなものだが)と監督を務めた『舗道の囁き』はお蔵入りの憂き目に遭い、戦後の1946年まで公開(なお、『思ひ出の東京』と改題)されることはなかった。

ここで、『婦人倶楽部』1929年11月号の「映画界花形座談会――俳優生活と撮影から上映まで」という記事を紹介しておく。
参加者は傳明と絹代の他に大河内傳次郎、高田稔、夏川静江、栗島すみ子、八雲恵美子、マキノ智子、弁士時代の徳川夢声などである。
後半にかけてはほぼ傳明の独壇場になっているのがいかにも彼の人柄を物語るものがあるが、その中で傳明が〈僕はもう絹代さんを妹見たいな気がして、絹代々々と云つて居りますが、絹代さんも僕を兄のやうな気がすると、他の人に漏したと云ふことを聞きました。〉*2と語っている点に注目したい。
対する絹代は一言しか発言していないのが気にかかる(もともと饒舌なほうではないにしても)。
何かにつけ自分の人気を笠に着る傳明を快く思っていなかったとすれば、この座談会への参加も気が進まなかったのだろうと邪推され、今読むとなかなかに闇の深さを感じる記事であった。

*1:〈『田中絹代不美人論』などという文章を、伝明が映画雑誌に書くらしいと、ある人が知らせてくれたのはそのころである。「サンデー毎日」の記事で見たという。(中略)見ると『田中絹代不美人論』と三段抜きの記事が出ており、――鈴木伝明曰く「美しいのはその嬌声さ」――というサブタイトルがついている。伝明がそうした文章を書こうかと話しているという記事だが、こんなことを彼は言っていた。「ね、不美人論だ。美人論じゃないんだ。つまり田中絹代のどこにも美しいところはないという、それを僕が書くんだ。面白いじゃないか。ただ一つ美しいのは声だね。これを雑誌に書けば、変わっていて面白いよ」〉古川薫『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』(文春文庫 2004年)

*2:「映画界花形座談会――俳優生活と撮影から上映まで」『婦人倶楽部』1929年11月号(大日本雄弁会講談社 1929年)