柳の下に猫は2匹いない

戦前日本映画史ネタの覚え書き

神戸クラシックコメディ映画祭2020 『國士無双』・『続清水港』解説再録

本記事は2020年1月11日~13日に神戸映画資料館旧グッゲンハイム邸にて開催された神戸クラシックコメディ映画祭のプログラム、『國士無双』(1932)、『続清水港』(1940)の上映に際して配布した解説資料の再録(一部省略)です。

片岡千恵蔵略歴

1903年3月30日、群馬県新田郡藪塚本町(現在の群馬県太田市藪塚町)に植木菊太郎、かつの長男として生まれる。本名は植木正義。2歳のときに母を亡くし、以後は祖母の手で育てられた。祖母に連れられて上京したあとは東京府東京市麻布区(現在の東京都港区麻布)の父の住居に移り住んでいる。1915年には11代片岡仁左衛門主宰の片岡少年劇に加入、片岡十八郎の芸名で初舞台を踏む。片岡少年劇が解散すると仁左衛門の直弟子として大歌舞伎へと舞台を移す。このときの一座にのちの嵐寛寿郎がいた。1923年、畑中蓼坡の新劇協会に出入りしていた関係で小笠原明峰が設立した小笠原プロダクションの第2回作品に植木進の芸名で参加、映画界への第一歩を踏み出す。初出演作は『三色すみれ』という現代劇で大学生を演じた。なお、当時恋愛関係にあった新橋の雛妓が関東大震災で死亡(病死の説もあり)しており、その家の養子に入っている。

1926年、直木三十五の紹介でマキノ・プロダクションに入社*1。翌年に片岡千恵蔵の芸名で入社第1回作品『万花地獄』が公開された。以降、マキノの二枚目スターとして活躍するが、1928年の『忠魂義烈 実録忠臣蔵』でマキノ省三から不義理な仕打ちを受け退社を考えはじめる*2。三共社(マキノの四国ブロック配給会社)社長山崎徳次郎から誘いを受けていた千恵蔵は、独立プロダクションの支援を目的に山崎が設立した大日本活動常設館館主連盟映画に呼応。同年5月にマキノを退社、京都の双ヶ丘撮影所に片岡千恵蔵プロダクション(通称千恵プロ)を設立した。創立メンバーは専属監督に稲垣浩*3、脚本家兼助監督に伊丹万作、曽我正史(監督名義は振津嵐峡)、石本秀雄、衣笠淳子、香川良介など。第1回作品は『天下太平記』であった。しかし、第2回作品となる『放浪三昧』の公開直前に後ろ盾の館主連盟が瓦解。同時期の独立プロダクションが次々に解散する中で、資金難に喘ぎながら陣営の拡張や撮影所の確保に奔走し作品を撮り続けた。1931年の『元禄十三年』では入江たか子とのロマンスで撮影所界隈を賑わせている。1932年からは稲垣と伊丹がトーキー研究会を設置、トーキー講座の開催のため撮影所内に麻雀禁止令を出し千恵蔵をくさらせるも、同年7月に千恵プロ初のトーキー作品『旅は青空』が完成した。その後は伊丹の退社、千恵蔵の病気、稲垣の退社と苦難が相次ぐが、1936年に千恵プロに復帰した伊丹の『赤西蠣太』が高評価を受けヒット作となった。これまで資金の問題でたびたび衝突していた日活との再提携第1弾の作品であった。1937年、千恵プロ全従業員の日活入社を条件に千恵蔵の日活入社が正式に取りまとめられ、千恵プロは解散した。最後の作品は『松五郎乱れ星』。

1942年、戦時統合によって日活が大映となり、千恵蔵も大映に所属する。大映には阪東妻三郎嵐寛寿郎市川右太衛門がおり、"時代劇四大スタア"と呼ばれた。1949年には東横映画の取締役に就任、1951年の東映株式会社創立にも引き続き取締役に就任し、同じく東映創立に参加していた市川右太衛門とともに長く東映時代劇の重鎮として活躍した。1983年3月31日死去。享年80。

マゲをつけた現代劇

1928年の設立から1937年の解散までの約10年間、数々の名作を生み出した千恵プロの最大の特色はその"明朗性"である。千恵蔵のパーソナリティを活かし、時代劇でありながら現代的な感覚を取り入れた全く新しい時代劇に昇華できたのも、稲垣浩伊丹万作という二人の監督に与って力がある。しかし、両者の映画的な基調は全く異なっている。代表作で例えるならば、稲垣は『瞼の母』(1931)のような"哀愁を含んだ明朗性"、伊丹は『國士無双』(1932)のような"ニヒリズムを帯びた明朗性"といえる。千恵プロの作品が描いてきたものの多くが"小市民的生活"であり、稲垣は股旅物の中でそれを発揮した。時代劇においては強者の象徴として登場する武士も、伊丹が描けば武士としての威厳や品格を持たない一個の抽象化されたただの"人間"になった。こうした時代劇に対する方針は、盟主である千恵蔵の発言からも汲み取ることができよう。

かつて私は、殺陣が嫌ひであつた。今だつて、決して好きだとは云へない。けれどもコンマーシヤリズムは、無理強ひに私を殺陣へ追ひやつた。刀を持て! 刀を揮へ! 人を斬れ! そしてぐつと大見得をきるのだ。
私の根本的な悩みはそこにあつた。時代劇は、これだけで良いのであらうか。――否、と云ふ言葉が私の内にはあつた。ありながらもしかし、剣を持つて立廻らなければならなかつた私なのである。悩みはこゝにあつた。(中略)
そう何時までも、剣劇ばやりで有つてはいけないやうな気がする。もつと深いもの、もつと重厚なものが、作の中心をなしても良い、と考へるのは、あながち私一人ではないだらう。
自分が殺陣が嫌ひだから、こう云ふのではない。いつ迄も同じ流行が続くことは、良いにつけ悪いにつけ退屈なものだ。就中、そうした流行に縛られて、いかにしてそれに迎合すべきかを考へなければならない私達の立場から思へば、それは退屈以上のものだ。
保守的な「旧劇」から「剣劇」へ、それから……と考へて、何が剣劇に代るかと云ふことは私にははつきり云へない。が、もう良い加減に剣劇に代るものが生れても良いと思われる。

片岡千恵蔵「春日断片語」(『映画時代』1928年5月号)

『國士無双』の結末

現在、84分のうち21分が存在するフィルムでは、贋者(千恵蔵)との勝負に負けた本者の伊勢伊勢守(高勢実乗)が仙人(伴淳三郎)に弟子入りする場面で幕となる。その後贋者は、身投げをしようとする娘、お初(白川小夜子)を助けていた。お初は50両がなければ身売りをするという。贋者は伊勢守の娘、八重(山田五十鈴)に用立ててもらった50両をお初に渡す。かねがね贋者に好意を寄せていた八重はその光景を目撃してしまう。この八重とお初の恋の鞘当てが物語の横軸になるといっていいだろう。シナリオでは〈鼻と鼻を突き合す。お初まず殴る。八重、殴る。殴る。殴る。組打ちになる。上になり下になり、お初、最後に上になり、刃物で突き立てる。〉とかなり壮絶な取っ組み合いにまで発展しており、もし現存していれば見どころの一つだったに違いない。二人に圧倒され、とうとう〈二人の女に想われるのは災難だ〉と逃げ出した贋者は、ひょんなことからオケラの八兵衛(香川良介)という侠客の一党を子分にして道場を開く。そこへ届いたのは、修行を終えて下山した伊勢守からの手紙であった。

再び相まみえた本者と贋者。その勝負の結果は、やはり贋者が勝利した。八重を貰い受けて出ていく贋者を唖然として見送る一同。寄り添う二人の上に降る雪。寄り添って座る二つの雪だるま。

「そちの申す通り、勝つ者が正しいのじゃ、ついては勝った者が贋者でいる必要はない、本者になってくれ」
「拙者には贋も本者もない。勝つも負けるも自分があるだけだ」

キネマ旬報別冊 日本映画代表シナリオ全集(1)』(キネマ旬報社 1957年)

『続清水港』シナリオとの比較

石松とおふみが次郎長一家に見送られながら金比羅代参に旅立とうとする場面で、〈〽一世の別れになろうとは 夢にも知らず 石松 清水港をあとにする〉という文句が流れる。シナリオではここで広沢虎造扮する若い衆が登場してこの文句を唸り、〈縁起でもねぇ、簀巻にしてドブへ投げ込んでやるぞ!〉と石松に怒鳴られるのだが、本編では劇伴として使用するにとどまっている。夢とはいえ、石松以外に石松の死を知っている人物を出してしまっては、この世界での"頭がおかしくなっている石松"という認識がずれてしまうことになる。また、このあと同じ人物が石松と三十石船のやりとりを繰り広げることを思えば不自然だろう。

本作の公開当時の上映時間は96分といわれているが、現存するフィルムは90分である。実際に本編を見てみると確かに場面が飛んでいる箇所が見受けられる。これが失われたものか再上映時にカット(『清水港代参夢道中』を配給した新東宝は、旧作を無断で改題縮尺していたことが問題視されていた)されたものか今となっては確認すべくもないが、シナリオを確認してその空白部分を埋めていこう。
石松が都鳥吉兵衛(瀬川路三郎)に闇討ちされたあと、一足遅れて現れた慌ての六助(沢村国太郎)が石松を介抱する。〈すまねぇ、石兄哥、すまねぇ〉と詫びる六助。本編では石松を狂人扱いにしたままで終わっていた六助の面目躍如である。瀕死の石松が六助におふみへの遺言を託そうとするその瞬間、現実の世界に戻る。以下、本編に繋がるまでの部分を少々長いが引用する。

長椅子の上から床に落ちて、
「ウーム、おふみ…ウーム、おふみ」
とうなっている石田。
鼻歌を歌い乍ら廊下をやって来た文子。
硝子戸のこわれているのを見て、
「アラ、アラ、アラ、アラ」
と扉を開ける。
床の上の石田を見て吃驚。
「先生、どうしたんです」
とかけよる。
ハッと目を開けた石田、文子を見て、
「ああ、おふみ、おふみ、芳坊は、芳坊は無事か」
文子、吃驚して、
「先生! 何を言ってるんです」
石田「六助は、虎造は?」
文子、呆気にとられて、
「先生、しっかりしてよ、気が変になったのかしら?」
石田「何? 気が変? 未だ言うか、馬鹿野郎」
と大声を出して、ホントに目が覚める。
呆然とあたりを見廻わす。
文子「先生、ほんとにどうしたんです、昨日ここへ泊ったんですか?」
石田「あ、そうか、三十石船、七五郎の家、虎造の浪花節、ウン、こいつはいける」
文子「まあ大きな声で、少し変ね」
石田「うるさいッ、だまれ。早くタイプライターに座って、さァ打つんだ」
文子「いゃです、もう先生みたいな圧政家は大嫌いです。今日は私、辞表を出しに来たんですから」
石田「やかましいッ、辞表は郵便でも出せる、来たのは辞める気がないんだ、さ、早く座り給え」
タイプの椅子にドカンと座らせる。
「いいか…題名『森の石松三人旅』第一幕 第一場」
タイプの上に叩かれて行くその文字。
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91 インサート
ビラ、新聞広告。
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92 客席
満員の観客。
場内アナウンサー、
「只今より、お待ち兼ねの『森の石松三人旅』を上演致します」

『男の花道――小國英雄シナリオ集』(ワイズ出版 2009年)

参考文献
  • 『映画時代』1928年5月号
  • 『映画スター全集 第7巻』(平凡社 1930年)
  • 『映画評論』1933年1月号
  • キネマ旬報別冊 日本映画代表シナリオ全集(1)』(キネマ旬報社 1957年)
  • マキノ光雄「スターとともに 片岡千恵蔵談(四)」『読売新聞』1957年11月22日夕刊
  • 『映畫読本 千恵プロ時代――片岡千恵蔵稲垣浩伊丹万作 洒脱に、エンターテインメント』(フィルムアート社 1997年)
  • 『男の花道――小國英雄シナリオ集』(ワイズ出版 2009年)

*1:野村芳亭と知り合った千恵蔵は1925年に松竹蒲田入社の話がほぼまとまっていたが、野村の松竹下加茂移動で御破算になった。

*2:〈配役表の筆頭には、大石内蔵助=伊井蓉峰とスミ黒々と書いてあり、ついで浅野内匠頭(つまり判官)というところには何と諸口十九とあり、私の名ではありませんでした。(中略)その時のくやしさ、悲しさときたらありませんでした。ぼう然とたたずむうち、いつしか眼頭はジーンとぬれてきます。"やめよう"と思いました。〉(「片岡千恵蔵談」)

*3:千恵蔵は伊藤大輔を勧誘していたが、『新版大岡政談』(1928)を撮影中だったため断られた。稲垣と伊丹の加入は伊藤の推薦によるもの。