柳の下に猫は2匹いない

戦前日本映画史ネタの覚え書き

『霧笛』鑑賞記~村田実と中野英治、そして志賀暁子~

12月23日、神戸映画資料館にて念願の村田実監督『霧笛』(1934)を鑑賞した。明治期の外人居留地を舞台に、異人のクウパー(菅井一郎)のもとで下男として働く元スリの千代吉(中野英治)は、喧嘩の強さから地元のやくざを取り仕切る豚常(村田宏寿)に目をつけられる。千代吉は豚常の縄張りのチャブ屋でらしゃめんのお花(志賀暁子)と出会い惹かれ合うが、お花がクウパーの愛人であることを知り、やがてお花をめぐって千代吉とクウパーは対決する。

ざっと筋書きを紹介した通り、登場人物の関係性において中心となっているのは千代吉とクウパー、千代吉とお花ではあるが、千代吉に因縁をつけて喧嘩を挑む地元のやくざ、代官坂の富(小坂信夫)の存在も忘れがたい。千代吉との喧嘩に負け、弟分となって千代吉の危機を救おうとする富は、劇中の台詞いわく「ぽかぽかやって」勝てば男同士のヒエラルキーが決まる単純さが見ていて一種の心地よさがあった。

本作の主眼はお花をめぐる三角関係というよりも、千代吉のクウパーに対する感情の変化である。クウパーの下男として忠実に働き、クウパーの癖さえ身につくほどになった千代吉が、お花の相手がクウパーだったと知るに及んで、哄笑しその肖像を踏みつける。そこには主人の女を寝取ってしまった罪の意識などではなく、クウパーという絶対的な存在が崩れ去り、一人の侘しい老人に対する軽蔑や憎しみの感情が読み取れる。上映終了後、木下千花先生が指摘していたように、これが千代吉のクウパーへの失恋というホモソーシャルな関係性を暗示しているとするなら、千代吉と富の関係性もまた、やくざという男の世界におけるホモソーシャルが描かれているといえる。

千代吉とクウパーの出会いは冒頭、スリ時代の千代吉が仲間に唆されてクウパーを標的にする場面からはじまる。犯行は未遂に終わるのだが、悪事を働いた千代吉をクウパーは警察に引き渡すでもなく一生自分のもとで働け、という。時が経ち、次の場面ではすっかり堅気となった千代吉のボサボサだった頭は綺麗に整えられ、後ろに撫でつけられている。これをクウパーの好みに仕立て上げたとみるのは穿ちすぎかもしれないが、見ていて私は村田実と中野英治の関係を彷彿とさせた。

――すると、中野さんと村田監督は波長が合っていたというか?
中野 ええ。ぼくにはわりに優しかったしね、上手にできない時でも親切丁寧に教えてくれました。「もともとこっちは先生が拾ってきた野良犬だから芸ができなくっても当たり前だ。もっと上手いのが欲しいなら築地(小劇場)の役者でもなんでも呼んでおやりになったらどうですか!」と平気で言うんですよ、ぼくは。と、「そう言わないでやって下さいよ」ということになるんです。これは他の俳優に対するデモンストレーションでもありましたけど、ね。
――村田さんは新しいものに非常に敏感な人だったようですね。
中野 ええ。新しいもの好き。それで思い出すのは、ぼくが村田さんに会った最初の頃、「英ちゃん、スマートにならなきゃ駄目よ」と言われたことですね。その時ぼくははじめて「スマート」という言葉をきいた。「ハイカラ」とかは言ってましたけど、「スマート」は珍しかった。帰って辞書引いて調べたりしてね。それからね、「金曜会」というのに連れていかれましたね。(中略)で、この連中に洋服の着かた、洋食のテーブル・マナーなどを全部教育されたわけです。この「金曜会」は村田さんのブレインです。村田さんが親友の森岩雄さんと拵えたんです。

岩本憲児・佐伯知紀「聞書き日本映画史 中野英治(上)」
『月刊イメージフォーラム』4月号(ダゲレオ出版 1985年)

中野が自身を「野良犬」と称しているように、法政大学の野球部から天勝野球団に入団し、震災後に球団が解散すると、船員や映画館の楽士を転々とする*1天勝野球団にいた縁から日活京都の野球部に誘われた中野は俳優部に籍を置き、野球をやりながら遊び半分でできる仕出しをこなす日々を送るうち、履歴書が目にとまった村田実によって見出されることになる。演技の経験もないズブの素人だった中野を村田は指導し、中野いわく「野良犬」を立派な紳士に教育したわけだが、まるで『痴人の愛』の譲治とナオミではなかろうか、と思うのはやはり過言かもしれない。

ところで本作はもちろん検閲を通っており、キスを想起させる場面や人道上問題のある場面は削除されているそうだ。しかしながら、千代吉とお花の描写、とりわけ繰り返される「壁にたたきつけてやろうか」という台詞などからは肉体を感じさせる生々しさがあり、当時の作品でここまで性行為を匂わせているのは結構な衝撃であった。実際に中野英治と志賀暁子は一時的に愛人関係を結んでおり、それを踏まえてみるとより官能的な作品に思えてくる。志賀は自伝の中で、ダンサーをしていた19歳の頃ダンスホールで初めて中野に会ったときのことを述懐している。

「あんた、日活の中野さんじゃない?」
私がこう囁いた時、彼は鼻の先で笑って、
「中野英治だったら?」
(どうなんだ)と眼までがいたずらっぽく笑いながらせまって来ました。
 のがれえぬ宿命というのでしょうか、運命のいたづらというのでしょうか、その夜私の花の蕾は中野英治さんによって無理矢理開かせられてしまいました。
 そしてその夜、私は中野さんに二度と私の体に触れないこと、そしてこれからは兄のように私を愛し、みちびいてくれるよう頼みました。彼も至極真面目に私の申出を守ることをちかってくれました。

志賀暁子『われ過ぎし日に―哀しき女優の告白―』(学風書院 1957年)

本当に初体験の相手だったかどうかはともかく、中野は志賀に自分の家の一室を間借りさせたり、『霧笛』への出演にあたって面倒をみたりと奔走してくれたようだ。志賀と出会った頃の中野はまだ英百合子と結婚していてあいだに一子(のちの長谷部健)もいたし、『霧笛』の時期にしても志賀以外に数人の愛人がいた。入江たか子に手を出そうとして菅井一郎に阻まれたのも同時期のことだろう(詳しくは過去の記事参照)が、これだけのレディキラーでありながら人間性に関しては悪く言われているのを見たことがないというのも不思議な人である。

志賀はこのあと周知の通り堕胎事件を起こし逮捕、中野は同年に新興キネマから第一映画に移っている。志賀にも中野にも去られてしまった村田は3年後に43歳の若さで病死するが、画面奥に消えてゆくクウパーの姿に村田の晩年を見る思いがする。

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*1:色川武大「[昭和モダンボーイ指南]色川武大、”銀幕の不良少年”中野英治に聴く。」『エスクァイア日本版』6月号(エスクァイアマガジンジャパン 1988年)

神戸クラシックコメディ映画祭2020 『國士無双』・『続清水港』解説再録

本記事は2020年1月11日~13日に神戸映画資料館旧グッゲンハイム邸にて開催された神戸クラシックコメディ映画祭のプログラム、『國士無双』(1932)、『続清水港』(1940)の上映に際して配布した解説資料の再録(一部省略)です。

片岡千恵蔵略歴

1903年3月30日、群馬県新田郡藪塚本町(現在の群馬県太田市藪塚町)に植木菊太郎、かつの長男として生まれる。本名は植木正義。2歳のときに母を亡くし、以後は祖母の手で育てられた。祖母に連れられて上京したあとは東京府東京市麻布区(現在の東京都港区麻布)の父の住居に移り住んでいる。1915年には11代片岡仁左衛門主宰の片岡少年劇に加入、片岡十八郎の芸名で初舞台を踏む。片岡少年劇が解散すると仁左衛門の直弟子として大歌舞伎へと舞台を移す。このときの一座にのちの嵐寛寿郎がいた。1923年、畑中蓼坡の新劇協会に出入りしていた関係で小笠原明峰が設立した小笠原プロダクションの第2回作品に植木進の芸名で参加、映画界への第一歩を踏み出す。初出演作は『三色すみれ』という現代劇で大学生を演じた。なお、当時恋愛関係にあった新橋の雛妓が関東大震災で死亡(病死の説もあり)しており、その家の養子に入っている。

1926年、直木三十五の紹介でマキノ・プロダクションに入社*1。翌年に片岡千恵蔵の芸名で入社第1回作品『万花地獄』が公開された。以降、マキノの二枚目スターとして活躍するが、1928年の『忠魂義烈 実録忠臣蔵』でマキノ省三から不義理な仕打ちを受け退社を考えはじめる*2。三共社(マキノの四国ブロック配給会社)社長山崎徳次郎から誘いを受けていた千恵蔵は、独立プロダクションの支援を目的に山崎が設立した大日本活動常設館館主連盟映画に呼応。同年5月にマキノを退社、京都の双ヶ丘撮影所に片岡千恵蔵プロダクション(通称千恵プロ)を設立した。創立メンバーは専属監督に稲垣浩*3、脚本家兼助監督に伊丹万作、曽我正史(監督名義は振津嵐峡)、石本秀雄、衣笠淳子、香川良介など。第1回作品は『天下太平記』であった。しかし、第2回作品となる『放浪三昧』の公開直前に後ろ盾の館主連盟が瓦解。同時期の独立プロダクションが次々に解散する中で、資金難に喘ぎながら陣営の拡張や撮影所の確保に奔走し作品を撮り続けた。1931年の『元禄十三年』では入江たか子とのロマンスで撮影所界隈を賑わせている。1932年からは稲垣と伊丹がトーキー研究会を設置、トーキー講座の開催のため撮影所内に麻雀禁止令を出し千恵蔵をくさらせるも、同年7月に千恵プロ初のトーキー作品『旅は青空』が完成した。その後は伊丹の退社、千恵蔵の病気、稲垣の退社と苦難が相次ぐが、1936年に千恵プロに復帰した伊丹の『赤西蠣太』が高評価を受けヒット作となった。これまで資金の問題でたびたび衝突していた日活との再提携第1弾の作品であった。1937年、千恵プロ全従業員の日活入社を条件に千恵蔵の日活入社が正式に取りまとめられ、千恵プロは解散した。最後の作品は『松五郎乱れ星』。

1942年、戦時統合によって日活が大映となり、千恵蔵も大映に所属する。大映には阪東妻三郎嵐寛寿郎市川右太衛門がおり、"時代劇四大スタア"と呼ばれた。1949年には東横映画の取締役に就任、1951年の東映株式会社創立にも引き続き取締役に就任し、同じく東映創立に参加していた市川右太衛門とともに長く東映時代劇の重鎮として活躍した。1983年3月31日死去。享年80。

マゲをつけた現代劇

1928年の設立から1937年の解散までの約10年間、数々の名作を生み出した千恵プロの最大の特色はその"明朗性"である。千恵蔵のパーソナリティを活かし、時代劇でありながら現代的な感覚を取り入れた全く新しい時代劇に昇華できたのも、稲垣浩伊丹万作という二人の監督に与って力がある。しかし、両者の映画的な基調は全く異なっている。代表作で例えるならば、稲垣は『瞼の母』(1931)のような"哀愁を含んだ明朗性"、伊丹は『國士無双』(1932)のような"ニヒリズムを帯びた明朗性"といえる。千恵プロの作品が描いてきたものの多くが"小市民的生活"であり、稲垣は股旅物の中でそれを発揮した。時代劇においては強者の象徴として登場する武士も、伊丹が描けば武士としての威厳や品格を持たない一個の抽象化されたただの"人間"になった。こうした時代劇に対する方針は、盟主である千恵蔵の発言からも汲み取ることができよう。

かつて私は、殺陣が嫌ひであつた。今だつて、決して好きだとは云へない。けれどもコンマーシヤリズムは、無理強ひに私を殺陣へ追ひやつた。刀を持て! 刀を揮へ! 人を斬れ! そしてぐつと大見得をきるのだ。
私の根本的な悩みはそこにあつた。時代劇は、これだけで良いのであらうか。――否、と云ふ言葉が私の内にはあつた。ありながらもしかし、剣を持つて立廻らなければならなかつた私なのである。悩みはこゝにあつた。(中略)
そう何時までも、剣劇ばやりで有つてはいけないやうな気がする。もつと深いもの、もつと重厚なものが、作の中心をなしても良い、と考へるのは、あながち私一人ではないだらう。
自分が殺陣が嫌ひだから、こう云ふのではない。いつ迄も同じ流行が続くことは、良いにつけ悪いにつけ退屈なものだ。就中、そうした流行に縛られて、いかにしてそれに迎合すべきかを考へなければならない私達の立場から思へば、それは退屈以上のものだ。
保守的な「旧劇」から「剣劇」へ、それから……と考へて、何が剣劇に代るかと云ふことは私にははつきり云へない。が、もう良い加減に剣劇に代るものが生れても良いと思われる。

片岡千恵蔵「春日断片語」(『映画時代』1928年5月号)

『國士無双』の結末

現在、84分のうち21分が存在するフィルムでは、贋者(千恵蔵)との勝負に負けた本者の伊勢伊勢守(高勢実乗)が仙人(伴淳三郎)に弟子入りする場面で幕となる。その後贋者は、身投げをしようとする娘、お初(白川小夜子)を助けていた。お初は50両がなければ身売りをするという。贋者は伊勢守の娘、八重(山田五十鈴)に用立ててもらった50両をお初に渡す。かねがね贋者に好意を寄せていた八重はその光景を目撃してしまう。この八重とお初の恋の鞘当てが物語の横軸になるといっていいだろう。シナリオでは〈鼻と鼻を突き合す。お初まず殴る。八重、殴る。殴る。殴る。組打ちになる。上になり下になり、お初、最後に上になり、刃物で突き立てる。〉とかなり壮絶な取っ組み合いにまで発展しており、もし現存していれば見どころの一つだったに違いない。二人に圧倒され、とうとう〈二人の女に想われるのは災難だ〉と逃げ出した贋者は、ひょんなことからオケラの八兵衛(香川良介)という侠客の一党を子分にして道場を開く。そこへ届いたのは、修行を終えて下山した伊勢守からの手紙であった。

再び相まみえた本者と贋者。その勝負の結果は、やはり贋者が勝利した。八重を貰い受けて出ていく贋者を唖然として見送る一同。寄り添う二人の上に降る雪。寄り添って座る二つの雪だるま。

「そちの申す通り、勝つ者が正しいのじゃ、ついては勝った者が贋者でいる必要はない、本者になってくれ」
「拙者には贋も本者もない。勝つも負けるも自分があるだけだ」

キネマ旬報別冊 日本映画代表シナリオ全集(1)』(キネマ旬報社 1957年)

『続清水港』シナリオとの比較

石松とおふみが次郎長一家に見送られながら金比羅代参に旅立とうとする場面で、〈〽一世の別れになろうとは 夢にも知らず 石松 清水港をあとにする〉という文句が流れる。シナリオではここで広沢虎造扮する若い衆が登場してこの文句を唸り、〈縁起でもねぇ、簀巻にしてドブへ投げ込んでやるぞ!〉と石松に怒鳴られるのだが、本編では劇伴として使用するにとどまっている。夢とはいえ、石松以外に石松の死を知っている人物を出してしまっては、この世界での"頭がおかしくなっている石松"という認識がずれてしまうことになる。また、このあと同じ人物が石松と三十石船のやりとりを繰り広げることを思えば不自然だろう。

本作の公開当時の上映時間は96分といわれているが、現存するフィルムは90分である。実際に本編を見てみると確かに場面が飛んでいる箇所が見受けられる。これが失われたものか再上映時にカット(『清水港代参夢道中』を配給した新東宝は、旧作を無断で改題縮尺していたことが問題視されていた)されたものか今となっては確認すべくもないが、シナリオを確認してその空白部分を埋めていこう。
石松が都鳥吉兵衛(瀬川路三郎)に闇討ちされたあと、一足遅れて現れた慌ての六助(沢村国太郎)が石松を介抱する。〈すまねぇ、石兄哥、すまねぇ〉と詫びる六助。本編では石松を狂人扱いにしたままで終わっていた六助の面目躍如である。瀕死の石松が六助におふみへの遺言を託そうとするその瞬間、現実の世界に戻る。以下、本編に繋がるまでの部分を少々長いが引用する。

長椅子の上から床に落ちて、
「ウーム、おふみ…ウーム、おふみ」
とうなっている石田。
鼻歌を歌い乍ら廊下をやって来た文子。
硝子戸のこわれているのを見て、
「アラ、アラ、アラ、アラ」
と扉を開ける。
床の上の石田を見て吃驚。
「先生、どうしたんです」
とかけよる。
ハッと目を開けた石田、文子を見て、
「ああ、おふみ、おふみ、芳坊は、芳坊は無事か」
文子、吃驚して、
「先生! 何を言ってるんです」
石田「六助は、虎造は?」
文子、呆気にとられて、
「先生、しっかりしてよ、気が変になったのかしら?」
石田「何? 気が変? 未だ言うか、馬鹿野郎」
と大声を出して、ホントに目が覚める。
呆然とあたりを見廻わす。
文子「先生、ほんとにどうしたんです、昨日ここへ泊ったんですか?」
石田「あ、そうか、三十石船、七五郎の家、虎造の浪花節、ウン、こいつはいける」
文子「まあ大きな声で、少し変ね」
石田「うるさいッ、だまれ。早くタイプライターに座って、さァ打つんだ」
文子「いゃです、もう先生みたいな圧政家は大嫌いです。今日は私、辞表を出しに来たんですから」
石田「やかましいッ、辞表は郵便でも出せる、来たのは辞める気がないんだ、さ、早く座り給え」
タイプの椅子にドカンと座らせる。
「いいか…題名『森の石松三人旅』第一幕 第一場」
タイプの上に叩かれて行くその文字。
―――――Wる
91 インサート
ビラ、新聞広告。
―――――Wる
92 客席
満員の観客。
場内アナウンサー、
「只今より、お待ち兼ねの『森の石松三人旅』を上演致します」

『男の花道――小國英雄シナリオ集』(ワイズ出版 2009年)

参考文献
  • 『映画時代』1928年5月号
  • 『映画スター全集 第7巻』(平凡社 1930年)
  • 『映画評論』1933年1月号
  • キネマ旬報別冊 日本映画代表シナリオ全集(1)』(キネマ旬報社 1957年)
  • マキノ光雄「スターとともに 片岡千恵蔵談(四)」『読売新聞』1957年11月22日夕刊
  • 『映畫読本 千恵プロ時代――片岡千恵蔵稲垣浩伊丹万作 洒脱に、エンターテインメント』(フィルムアート社 1997年)
  • 『男の花道――小國英雄シナリオ集』(ワイズ出版 2009年)

*1:野村芳亭と知り合った千恵蔵は1925年に松竹蒲田入社の話がほぼまとまっていたが、野村の松竹下加茂移動で御破算になった。

*2:〈配役表の筆頭には、大石内蔵助=伊井蓉峰とスミ黒々と書いてあり、ついで浅野内匠頭(つまり判官)というところには何と諸口十九とあり、私の名ではありませんでした。(中略)その時のくやしさ、悲しさときたらありませんでした。ぼう然とたたずむうち、いつしか眼頭はジーンとぬれてきます。"やめよう"と思いました。〉(「片岡千恵蔵談」)

*3:千恵蔵は伊藤大輔を勧誘していたが、『新版大岡政談』(1928)を撮影中だったため断られた。稲垣と伊丹の加入は伊藤の推薦によるもの。

鈴木傳明と田中絹代は不仲だったのか

田中絹代が女優としての名声を高めはじめたのは1927年、『真珠夫人』(池田義信監督)に栗島すみ子の娘役で助演してからだ。
松竹の大幹部であり大スターの栗島と共演することは当時の女優の目標になっていた。
それまでの絹代はお世辞にも美人とはいえない容貌といかにも子供子供した年恰好(実際子供だった)が上層部の不評を買っていたが、五所平之助の強い要望により同年に『恥しい夢』で初主演を果たす。
この初主演の話が舞い込んできたのは『真珠夫人』への出演が決まった直後で、絹代を主演に起用することに難色を示した城戸四郎を説き伏せた五所の奔走の結果であった。
下町の芸妓を演じた絹代の初主演作は無事好評を博し、いよいよ『真珠夫人』がクランクインするが、ちょうど前後して清水宏との"試験結婚"と称した同棲生活が始まっている。
この年の7月には大部屋から準幹部に昇進しており、絹代にとってはいい意味でも悪い意味でも記憶に残る年になっただろう。

さらに翌年の1928年、絹代は『近代武者修業』(牛原虚彦監督)で鈴木傳明の相手役に抜擢される。
傳明は絹代がデビューする5ヶ月前の1924年3月に日活へ入社し、早くも現代劇の二枚目スターとして君臨していたが、当時の看板女優だった梅村蓉子を日活に引き抜かれた松竹が、その意趣返しに傳明を引き抜いた。1925年のことである。

「伝明はスポーツマンで六尺豊かな男性美でしょう。絹代ちゃんは小柄で少女っぽい可憐型でしょう、このアンバランスをね、うまく利用しようと思ったんですよ。当時、アメリカに、チャールス・ファーレルという大きな俳優がいましてね、これとジャネット・ゲーナーという小柄な女優が組んで、人気を呼んでいたんですよ、わたくしはこれを思いだしました。清水と結婚して色気も出てきたし、伝明との組み合せがいいと思ったんですが、所長は反対なんですね。絹代は可憐ではあるがスターになるガラではない、伝明の相手には不足だと。わたくしは、絹代は大スターになる資格があるとゆずらない、言いだしたんだからゆずれません、いや、なれない。いや、なりますとケンカですよ。よしそれじゃ賭けようってんで、千円だ、よろしいとこっちも受けて立つ。この勝負、結局わたくしの勝ちになりましたけど、所長は約束を破って、千円はくれませんでした」

新藤兼人『小説 田中絹代』(文春文庫 1986年)

牛原の目論見は見事に当たり、傳明・絹代・牛原のトリオ作品はしばらく松竹のドル箱になった。
以下に傳明と絹代の共演作品を列挙しておく(相手役でないものも含む)。
牛原監督作品には特に*印を付した。

1927年
1928年
1929年
  • 『彼と人生』*
  • 『大都会 労働篇』*
  • 『山の凱歌』*
  • 『鉄拳制裁』(野村浩将監督)
1930年
  • 『進軍』*
  • 『大都会 爆発篇』*
  • 『若者よなぜ泣くか』*
1931年

 参考:「田中絹代 出演作品年表」下関市立近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館
http://kinuyo-bunka.jp/kinuyo/appearance/stage1920.html(2019.09.14参照)

全14作品のうち10作品が牛原監督作品であり、いかにこのトリオがファンの支持を集めていたかがわかると思う。
傳明・絹代映画の人気は、戦後の吉永小百合浜田光夫や、三浦友和山口百恵などといった青春映画の源流といっても過言ではないだろう。
牛原は1930年の『若者よなぜ泣くか』を最後に松竹を去り、翌年の1931年には傳明の不二映画事件が勃発、ここで傳明と絹代のコンビ時代は幕を閉じることになる。

一部の監督を除いた上層部の人間やマスコミからはその存在を軽んじられる向きがあった絹代だが、それはコンビを組んでいた傳明も同じだったようだ。
古川薫は傳明が絹代をこき下ろす文章を映画雑誌に書く、と記者に漏らしたことがあったと書いている*1
コンビを組んだ当初から二人には芸歴の上でも人気の上でも格差があり、飛ぶ鳥を落とす勢いだった傳明からすれば、絹代はポッと出の女優としか映らなかったのだろう。
当時の傳明と絹代の関係性は、新藤兼人による牛原へのインタビューにも窺うことができる。

 「寒くてね、焚火をしながらロケをやったもんですが、絹代ちゃん、焚火のそばへ寄ってこないんです、伝明君のうしろに控えて、火のそばへ寄ろうとしない。こっちは風邪でもひかれちゃ困るし、寄んなさいと言っても、はいと答えるだけ。山の娘なんだから素足なんですね、裾の短い着物を着ているから脛がまるだしなんです。すごい意気ごみなんですね、伝明君のいうことはなんでも、はいはい、と聞いてました」

新藤兼人『小説 田中絹代』(文春文庫 1986年)

以後も着実にキャリアを積み重ね、松竹映画にとどまらず日本映画の重鎮となっていった絹代とは正反対に、傳明の人気は松竹退社を境に陰りを見せはじめる。
その頃には傳明も30代半ばになっており、これまでと同じように純真無垢な青年を演じ続けるには無理があったといわざるを得ない。
盟友ともいえる牛原は映画研究のために各国を渡り歩いて精力的な作家活動はしていなかったし、1936年に主演(実質中川三郎が主演のようなものだが)と監督を務めた『舗道の囁き』はお蔵入りの憂き目に遭い、戦後の1946年まで公開(なお、『思ひ出の東京』と改題)されることはなかった。

ここで、『婦人倶楽部』1929年11月号の「映画界花形座談会――俳優生活と撮影から上映まで」という記事を紹介しておく。
参加者は傳明と絹代の他に大河内傳次郎、高田稔、夏川静江、栗島すみ子、八雲恵美子、マキノ智子、弁士時代の徳川夢声などである。
後半にかけてはほぼ傳明の独壇場になっているのがいかにも彼の人柄を物語るものがあるが、その中で傳明が〈僕はもう絹代さんを妹見たいな気がして、絹代々々と云つて居りますが、絹代さんも僕を兄のやうな気がすると、他の人に漏したと云ふことを聞きました。〉*2と語っている点に注目したい。
対する絹代は一言しか発言していないのが気にかかる(もともと饒舌なほうではないにしても)。
何かにつけ自分の人気を笠に着る傳明を快く思っていなかったとすれば、この座談会への参加も気が進まなかったのだろうと邪推され、今読むとなかなかに闇の深さを感じる記事であった。

*1:〈『田中絹代不美人論』などという文章を、伝明が映画雑誌に書くらしいと、ある人が知らせてくれたのはそのころである。「サンデー毎日」の記事で見たという。(中略)見ると『田中絹代不美人論』と三段抜きの記事が出ており、――鈴木伝明曰く「美しいのはその嬌声さ」――というサブタイトルがついている。伝明がそうした文章を書こうかと話しているという記事だが、こんなことを彼は言っていた。「ね、不美人論だ。美人論じゃないんだ。つまり田中絹代のどこにも美しいところはないという、それを僕が書くんだ。面白いじゃないか。ただ一つ美しいのは声だね。これを雑誌に書けば、変わっていて面白いよ」〉古川薫『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』(文春文庫 2004年)

*2:「映画界花形座談会――俳優生活と撮影から上映まで」『婦人倶楽部』1929年11月号(大日本雄弁会講談社 1929年)

光喜三子に関するあれこれ

平凡社が1929年から全10巻で出版した『映画スター全集』の第6巻に高田稔の特集がある。
その中に掲載されている当時4歳(撮影時)の長女は前妻との子供であり、再婚した光喜三子との子供はいないと思われる。
高田は帝国キネマから東亜キネマへ移籍した頃(1924~1927年)に原駒子と恋愛事件を起こしている*1ので、前妻とはその事件ののちに離婚、長女も母親側へ引き取られたのだろう。
以下は『芝居と映画 名流花形大写真帖』(大日本雄弁会講談社 1931年)に記載された喜三子のプロフィールである。

本名太田きく子。大正元年千葉県木更津に生る。中等教育全課を家庭教師より授けられ、東京青山女学院に於て英語を専攻すること二年。映画界へ志し市川猿之助弟子格として昭和五年夏松竹蒲田に入社。「ザツツオーケー」に初出演、「荊の冠」等の作あり。体重十三貫八百目、身長五尺二寸八分。趣味は手芸とダンスと云ふ蒲田の新人。

デビュー作となった『ザッツ・オーケー いゝのね誓ってね』(1930)のフィルムは現存しないが、主題歌(といっても歌の流行に便乗して映画化されたようである)の「ザッツ・オーケー」はCDで聞くことができる。
〈いいのね いいのね 誓ってね〉という河原喜久恵の歌唱に〈OK OK ザッツOK〉となんとも間の抜けた男性の合いの手が入る。
この声の主が誰だかわからないのだが、河原喜久恵と共にクレジットされているコロムビア・ジャズ・バンド(当時はこれでもジャズだったのだ)の一員だろうか。
間奏にリストの「愛の夢」を挿入した、当時としては凝った趣向の曲だと思われる。
ちなみに、「OK」という俗語が日本に普及するようになったのはひとえにこの曲の流行のおかげだそうだ。

 光喜三子は松竹の重役の娘で、一年前に入社したばかりだが、早くも準幹部に昇格している。親の威光を鼻にかけ、わがままにふるまうので、内部の評判はすこぶる悪い。(中略)手を焼いていると、喜三子は松竹の男優高田稔と恋愛関係にあることがわかった。そのために仕事をおろそかにしているのだった。

古川薫『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』(文春文庫 2004年)

喜三子は『マダムと女房』(1931)の撮影中に高田と恋愛事件を起こし、女房役をボイコットしている。
この状況を仮にも同じ会社で働いている高田が知らないはずはないのだが、本作が公開された1931年の8月から一ヶ月後に不二映画事件が起こっていることを考えると、退社に向けて水面下で行動していたのだろう*2
喜三子の代役には田中絹代が打診されたが、準幹部の喜三子に対し絹代は幹部の地位にあり、いわゆる格上が格下の代役を務める事態は前代未聞だった。
まだ手探り状態で結果がどう転ぶかもわからないトーキー映画、もし失敗すれば絹代の女優としての名声が地に落ちるかもしれない。
出演を渋る絹代に監督の五所平之助の必死の説得は功を奏した。
本作は無事に成功を収め、彼女の甘い声音が好評を博したのは周知の通りである。

こうした伝記小説はどこまで事実に即しているかの判断が非常に難しいところがある。
本書の記述を全て真に受けてしまうのは作者のスタンス*3にも反する(そもそも田中絹代をストイックに描こうとしすぎるあまり、他の俳優に対する目線が刺々しすぎるきらいがある)ので、資料としては簡単な事実関係の確認だけに留めておいたほうがいい。
ただ上記のプロフィールに〈市川猿之助弟子格〉とあるように、入社の経緯に何らかのコネはあったと思われる。

高田と結婚後、家庭の人となってからも雑誌のインタビューには度々答えている様子がある。
手元にある『週刊朝日』1936年3月号(こちらにも〈猿之助のアツセンで蒲田へはいつた〉と紹介されている)では高田との家庭生活を語っているが、見出しには喜三子の名前がなぜか〈百合子〉となっている。
仮名かと思いきや文中にはばっちり本名が出てくるし、「光喜三子」の芸名や経歴も書かれているので女優時代の過去を隠したいわけでもなさそうだ。
そうなると単なる誤植の可能性があるが、だいたい6年前に喜三子が蒲田へ入社してきたと書いてあるにもかかわらず結婚して6年と書くくらいだから、正確さを求めるほうが間違いかもしれない。
この記事で参考になることといえば飼い犬の名前くらいのものだった。

追記(2020.01.03)

高田稔と光喜三子の結婚の顛末について、調べていくうちに大幅な誤謬(希望的観測に基づく思い込み)がありましたので近々書き直したいと思います。気力があれば…。

*1:猪俣勝人・田山力哉『日本映画俳優全史 ―男優編―』(現代教養文庫 1995年)

*2:〈そのうちに高田の行動があやしくなつて来た。撮影に遅れる。勤務状況がよくない。僕の経験でいうと、俳優がいわゆる撮影開始以前にちやんと規則正しく入つて来て、メーク・アップをして、衣裳をつけてちやんと待つているようならば、伸びもするし、安心して仕事をまかせられるけれども、ぎりぎりに入つて来たり、ちよつと遅れて所長にあやまりながら仕事をするようになると、そろそろ不平があるとか、何かあることが分る。〉城戸四郎『日本映画伝 ―映画製作者の記録―』(文藝春秋新社 1956年)

*3:〈そこで稗史つまり小説であるという立場にすがっていえば、本書は厳密な実録資料として通用しないことを断っておくのがよいと思う。〉古川薫「文庫版のためのあとがき」『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』(文春文庫 2004年)

映画『虞美人草』(1941)と『三四郎』

夏目漱石原作の『虞美人草』は過去2度映画化されている。
最初の映画化作品となる溝口健二版(1935)を見た記憶はあるのだが、内容は完全に忘れてしまった。
概要を確認してみると主人公を宗近に、ヒロインを小夜子に据えたものに変更しているらしい。
現存するフィルムの保存状態がすこぶる悪い(台詞が聞き取りづらい)せいもあって、評価はあまりよくないようだ。
溝口版に関する言及は今回の眼目ではないので置いておくとして、もう一つの中川信夫版(1941)は素晴らしかった。
中川信夫という人はもともと新感覚派文学やプロレタリア文学に傾倒して同人誌に小説を書いたこともある文学青年なので、文芸作品とは相性がいいはずなのだ。
ことに本作は原作の世界観や時間の流れ、漱石が書いた一字一句をいかに大事にしているかが伝わってきた。
とはいえ原作とは違い、小野が小夜子と藤尾を引き合わさず藤尾の死を劇的に描かなかったのは、原作で向けられた藤尾に対する作者の意図*1を排除し、あくまでも青春恋愛映画としての枠組みから外れないようにするための配慮だろう。
しかしながら、そうすることによってかえって藤尾が死に至るまでの説得力に欠ける結果になってしまったのは否めない。
本編の台詞も原作の"漱石節"といえる独特な語り口をほぼそのまま使っているのだが、これまたイメージによく合ったキャストが見事にものにしていた。
高田稔の甲野(高田稔贔屓の私としては彼が甲野欽吾を演じてくれたというだけで満足なのだが)は意志に伴わない現実的な無力さがよく出ていたし、特に江川宇礼雄の宗近は出色の出来だと思う。
同じ漱石作品でいうなら『吾輩は猫である』(1975)における伊丹十三迷亭に匹敵する役の完成度である。
私は漱石作品に登場するこの手の人物が大好きなので、江川にはぜひ『三四郎』の与次郎を演じてもらいたかった。

さて、本作にはその『三四郎』からの引用が度々行われている。
本作の台詞は劇中からの書き起こし、底本はそれぞれ新潮文庫の『虞美人草』、『三四郎』(いずれも2015年)である。
散歩に出かけた甲野と宗近は昼食に蕎麦屋へ向かう道中、〈近頃は学校の先生でも昼飯を蕎麦で済ます者がだいぶ多くなったそうだ〉という話をする。
蕎麦屋では共通の友人である浅井(嵯峨善兵)が現れ、釜揚げうどんを頼む。

宗近「こいつ、相変わらず釜揚げうどんを食う。夏でも食ってるんだから。野暮な奴だ」
浅井「広田先生でも、夏やっとるのう」
甲野「そりゃおおかた胃が悪いんだろう」

浅井のいう〈広田先生〉とは『三四郎』に登場する人物で、漱石ファンならばニヤリとするところだろう。
この会話に該当する場面が『三四郎』で描かれている。

 高等学校の生徒が三人いる。近頃学校の先生が午の弁当に蕎麦を食うものが多くなったと話している。蕎麦屋の担夫が午砲が鳴ると、蒸籠や種ものを山の様に肩へ載せて、急いで校門を這入ってくる。此処の蕎麦屋はあれで大分儲かるだろうと話している。何とかいう先生は夏でも釜揚饂飩を食うが、どう云うものだろうと云っている。大方胃が悪いんだろうと云っている。

三四郎はこの会話を蕎麦屋で聞いている。
つまり、本作における蕎麦屋の場面は『三四郎』のパロディをやりたいがために用意されたといっていい。
妄想に入った見方をすれば、本作は『三四郎』と同一線上の物語であるかもしれない。
三四郎が図書館で借りた本に落書きされたヘーゲル論を見て、与次郎が〈大分振ってる。昔の卒業生に違ない。〉とそれを気に入る場面があるのだが、この〈卒業生〉が甲野だったらと思ってしまう。

「ハハハじゃ中位に描いて置こう。結婚と云えば、あの女も、もう嫁に行く時期だね。どうだろう、何処か好い口はないだろうか。里見にも頼まれているんだが」
「君貰っちゃどうだ」
「僕か。僕で可ければ貰うが、どうもあの女には信用がなくってね」
(中略)
「あの女は自分の行きたい所でなくっちゃ行きっこない。勧めたって駄目だ。好きな人があるまで独身で置くがいい」
「全く西洋流だね。尤もこれからの女はみんなそうなるんだから、それも可かろう」

三四郎』で美禰子を評した広田先生と原口の会話を、本作では甲野と宗近に流用している。
美禰子は学歴と教養を持ち、自我に目覚めた近代的な女性という点で藤尾とは同じカテゴリに属した人物といえる。
甲野は父親の遺品である金時計(今では藤尾の持ち物になっており、金時計を譲ることは藤尾を差し出すことでもあった)を宗近に譲る約束をする。
その際〈藤尾は自分の行きたいところじゃないと行きっこないかもしれないが〉と付け加える甲野に、宗近は〈全く西洋流だね。もっともこれからの女はみんなそうなるんだから、それもよかろう〉と答えるのだが、この時の江川の言い捨てるような演技が少々気になる。
宗近はそもそも藤尾に好意を持っており、彼女の〈西洋流〉なところにむしろ惹かれているのである。
現に〈外交官の妻はああいうハイカラな人でないと将来困る〉といっているのだから、この時の宗近の態度とは大いに矛盾が生じてしまうことになる。

「あなたは藤尾に家も財産も遣りたかったのでしょう。だから遣ろうと私が云うのに、いつまでも私を疑って信用なさらないのが悪いんです。あなたは私が家に居るのを面白く思って御出でなかったでしょう。だから私が家を出るというのに、面当ての為めだとか、何とか悪く考えるのが不可ないです。あなたは小野さんを藤尾の養子にしたかったんでしょう。私が不承知を云うだろうと思って、私を京都へ遊びに遣って、その留守中に小野と藤尾の関係を一日一日と深くしてしまったのでしょう。そう云う策略が不可ないです。私を京都へ遊びにやるんでも私の病気を癒す為に遣ったんだと、私にも人にも仰しゃるでしょう。そう云う嘘が悪いんです。――そう云う所さえ考え直して下されば別に家を出る必要はないのです。何時までも御世話をしても好いのです」
 甲野さんはこれだけでやめる。母は俯向いたまま、しばらく考えていたが、遂に低い声で答えた。――
「そう云われて見ると、全く私が悪かったよ。――これから御前さんがたの意見を聞いて、どうとも悪い所は直す積だから……」
「それで結構です、ねえ甲野さん。君にも御母さんだ。家に居て面倒を見て上げるがいい。糸公にもよく話して置くから」
「うん」と甲野さんは答えた限である。

蕎麦屋の場面に話を戻す。
本作は原作の冗長な部分をカットし、時系列を変えるなど必要な場面の取捨選択が非常にうまいのだが、原作において藤尾の死後に甲野が母に打ち明けた思いの丈をこの場面で甲野は宗近にのみ吐露する形に変えている。
さらに藤尾の死の前に宗近は洋行へ出立しており、その場へ駆けつけたのは甲野と糸子だけになっている。
原作と違い悲しみに暮れる母へ甲野がかけた言葉は〈泣いたって仕方がない。お諦めなさい〉という一言のみで、本来ならば宗近の台詞を使っているからかずいぶんと突き放した印象を受ける。
実の娘に死なれ、義理の息子に家を出て行かれる状況に置かれているからこそ母に向けられた甲野の言葉は救済にもなるのだが、本作ではそれは宗近だけが知っているため甲野と母の確執は依然として残ったままである。

*1:〈藤尾といふ女にそんな同情をもつてはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が欠乏した女である。あいつを仕舞に殺すのが一篇の主意である。〉(小宮豊隆宛書簡 1907年)※引用は「解説」『虞美人草』(新潮文庫 2015年)より

入江たか子をめぐる五人の男

入江たか子映画女優』(学風書院 1957年)

入江たか子は1927年のデビューから一躍スターの座に上り詰めた。
華族のお姫様という話題性はマスコミの注目を集めたが、当時の東坊城家は没落貴族でありひたすら家族を養うために選んだ女優という道だった。
本作は貧困、失恋、結婚の失敗、病気、そしてスターの座からの転落をつづった入江たか子の半生記である。
描かれる映画界の内幕も庶民が抱く華やかなイメージとは程遠く、俳優の女性関係や映画会社の策謀で占められている。
入江はその持ち前の美貌で多くの映画人を虜にしたが、彼女を取り巻く男たちの中でも特に際立つ5人を紹介しておく。

東坊城恭長

入江たか子の兄、東坊城恭長が映画界入りしたのは1924年のこと。
同じ華族だった小笠原明峰主宰の小笠原プロを手伝っていたのがきっかけで日活に入社する。
東坊城家は父であり当主の徳長の死去と、それに引き続く関東大震災の被害により生活苦に陥っており、残された3人の兄が母と弟妹を養わなければならなかった。
恭長の映画界入りは華族出身だからなのか高額の月給で、そのため恭長には〈身売り〉の意識が多分にあったようである。
子爵の御曹司が活動役者になったというニュースは新聞紙の紙面を賑わせた。
まだ活動役者に対して偏見が強かった当時、身内の者から活動役者が出たことで入江は友人に対して卑屈な気持ちになりがちだったが、それを励ましてくれたのが文化学院の同級生の伊達里子だったという。
入江は3人の兄のうち、この恭長と最も仲がよかった。

 この頃もう一つ私を憂鬱にしたことは恭長だった。大好きな兄であり、一ばん私を愛してくれた兄ではあるが、或夜一緒に枕をならべてねている私に迫って来た。
「英ちやんを他の男にやりたくない。僕が英ちやんを女にするんだ。」
 そして子供の出来ない方法があるから心配しなくてもよいといった。肉親に魅入られるほど美しい私であったろうか。勿論私は拒絶した。このことで私は急に恋人がほしくなった。どこかにその人がいる筈だ。私は早くその人を探し出して結婚しなくてはならない。

恭長は実の妹である入江に肉親以上の愛情を抱いていたことが随所で語られている。
最も衝撃的なのは美しい妹を他の男の手に委ねたくないあまり、実の兄でありながら肉体関係を迫るくだりだろう。
父の告別式の日、恭長に突然唇を奪われた入江は〈兄も父がなくなって淋しいのだ。これも妹に対する愛情かと思うと別に非難の言葉は出なかった。〉と書いているが、幼き日の追憶とはいえ少々感覚がズレている気がする。

片岡千恵蔵

恭長に迫られ、結婚を考え出すようになった入江に片岡千恵蔵プロダクションの作品への出演の話が舞い込む。
入江はそこで初めて片岡千恵蔵に会うが、初印象は〈あんまりきれいなので私はただポーッとしてしまった。〉とほぼ一目惚れのような状態だった。
作品は伊丹万作監督の『元禄十三年』(1931)、入江は千恵蔵の妻の役を演じた。
入江は千恵プロでの仕事を〈私の映画生活三十年のうちでこの「元禄十三年」の撮影中ほど毎日々々を楽しく仕事したことはあとにも先にもなかった。〉と述懐している。

千恵蔵さんだけが私の心の中のすべてを占めていた。私は少女の頃からどこかにきっと自分を心から愛して呉れる人がいて、今に屹度自分の前に現れてくれると固く信じていたが、千恵蔵さんこそその人だったのだと思った。そして夢の中の騎士のように私の心のすべてを奪ってしまっていた。

入江にとって千恵蔵はまさに初恋の人だった。
撮影所仲間のあいだでも入江と千恵蔵の関係はすぐ噂の種になり、新聞や雑誌にも結婚話が書き立てられた。
しかし実際はラブシーンの撮影でわざとカットの声を掛けなかったり、宴席の夜に千恵蔵をけしかけて寝室に乱入したりと、煮え切らない態度の二人を周りがなんとかしてくっつかせようと骨を折っていたようだ。
千恵蔵も入江に対して恋心を抱いていたが、売り出し中の千恵蔵の恋愛沙汰ということで人気への影響が心配され、結婚は実現しなかった。
そして翌年、入江は恭長から逃げるように俳優の田村道美と結婚することになる。

中野英治

1932年、入江ぷろだくしょんを設立した入江は第1回作品『満蒙建国の黎明』(溝口健二監督)の撮影のためのロケーション旅行に出かけている。
この時期は映画スターの独立プロダクション設立が最も盛んだったが、女優でしかも現代劇の独立プロは日本初の試みだった。
入江が代表とはいいながら内実は恭長が白井信太郎と計ってできたものであり、設立に際しての詳しい事情は何も知らされなかったらしい。
ともあれ、手始めに満州での傷病兵慰問を終えた入江一行は大連に向かい、そこで溝口健二を筆頭とする映画のロケ隊と落ち合う。
この一同の中に中野英治がおり、本作で入江の相手役をつとめることになっていた。

 船中第一夜、英ちやんは突如として私の部屋にちん入し、深刻に出て私を圧倒しようとした。(中略)いきなり襲いかかって、いろいろ手をかえてせめたてる、私は必死に抵抗する間にも何度か唇はうばわれる、首筋にも押つけられる。もしあの時私が少しでも飲んでいたらとても処女を守ることは出来なかったろうと思う程、間断ない波状攻撃、英ちやんの秘術をつくしての攻撃、じゆうたん爆撃、そのせめ方はおぼえていないが、とにかく「必ず僕のものにしてみせるのだ」と、英ちやん得意の活劇映画のクローズアップよろしく、眼をつりあげて迫る。

中野は映画界一のドン・ファンとして知られるほど女性に手が早いことで有名で、もれなく入江もターゲットにされていた。
なんでも日本を発つ前に入江を女にできるかどうか悪友と賭けてきたというのだから恐ろしい。
これが現代だとまず俳優生命が絶たれるレベルの強姦未遂事件になっていたに違いない。
しかし、この本が出版されるまで約30年間公にされなかったことは入江の性格にもよるだろうが、当時の女優(ひいては女性そのもの)の立場の弱さ、映画界の闇の深さを物語るものだと思う。
もっとも南部僑一郎が〈入江たか子満州で中野英治から女にされた〉とまことしやかに吹聴していたらしいが、中野にも入江にもさして人気に影響が出なかったところをみると単なるゴシップの域を出なかったのだろう。
入江にしても酒が入っていたら危なかったほどの危機であったにもかかわらず、中野を糾弾するといったような調子は文章からは窺えない。
あまつさえ〈こういうことさへなければ気さくな愉快なお友達で楽しく一緒に仕事が出来る相棒なのだ〉とフォローまで入れている。
中野の愛人であった若山千代に対しては不愉快になりながらも〈ドンファン中野英治の満州旅行中の貞操をまもってあげたことを若山さんに感謝してもらいたい〉と締めくくっており、時代とはいえ感覚の違いに愕然としてしまうのだが、入江が特別呑気なのかもしれない。
ところで、中野の全盛期の映画がほぼ鑑賞不可能となってしまった現在では、入江のいう〈英ちやん得意の活劇映画のクローズアップよろしく、眼をつりあげて迫る。〉という例えが今ひとつイメージできないのが残念である。

菅井一郎

さて、そんな中野英治の魔手(?)から入江を救い出したのが菅井一郎だった。
菅井は入江ぷろの創立に参加しており、それ以来ずっと入江の陰となり日向となって支えてくれたのだという。
そもそも、最後のロケ地で入江がホテルの部屋に干していた下着を中野にとられそうになった前哨戦ともいえる事件から菅井は助け舟を出している。
〈「何事ですか。」と両方に恥をかかせまいととぼけた声をかけて下さった〉と入江が書いている一文は、そのまま映画での菅井の声を思い起こさせる。
入江が中野に暴行されそうになった後日も、中野に泣き落としを食らい気持ちが揺らいでいるところを〈おひいさんもう遅いから行きましょう〉と絶好のタイミングで現れ入江を救っている。
入江はこの満州旅行中に菅井から翡翠の指輪をプレゼントされ、田村との結婚後も大事に使い続けていた。

 当時撮影所の雰囲気は俳優同志の恋愛は『日常茶飯事』になっていたので、私はそれに対するレヂスタンスとして、私が処女を捧げる人は屹度どこかに居るのだ、その人に会いさえすれば、私は本当に好きになるにちがいないと思って身を持していたが、満州ロケで菅井さんの親身の大きな愛情に度々接して、もしこの菅井さんが私に迫って来られたらどうしょうか、菅井さんには断れないかもしれないと、そんな事を考えたものだ。

全盛期の入江たか子にここまで言わせてしまう菅井一郎という男、とても『瀧の白糸』(1933)で入江を引きずり回しいたぶっていた場面からは想像ができないほどの男前っぷりである。
後年、化け猫映画への出演で「化け猫女優」のレッテルを貼られてしまった入江を励まし、慰めてくれたのも菅井だった。
入江は菅井を恋とはいえないまでも迫られれば身を捧げかねないほどに頼もしく思っていたのは確かだが、菅井は入江のことをどう思っていたのだろうか。

岡田時彦

入江が1933年に岡田時彦と組んだ『瀧の白糸』(溝口健二監督)は大ヒットを記録し、入江の生涯を通じての代表作となった。
その前年には鈴木傳明、高田稔らとともに参加した不二映画社が解散し、岡田は新興キネマに移籍している。
入江ぷろも新興キネマの傘下に入っており、入江の相手役にするための岡田の入社だったという。
入江と岡田とは1928年、日活時代に『母いづこ』(阿部豊監督)、『激流』(村田実監督)で共演している。
岡田とのコンビは評判を呼び、溝口は次作の『神風連』(1934)でも二人を組ませる予定だったが、岡田は撮影に入る前に病に倒れそのまま帰らぬ人となった。

 「僕はたかちゃんが日活に入った時から好きだった。『母いづこ』で始めて共演した時、よっぽどこの気持をうちあけようと思った。」
 私はこの言葉を聞いた時とても困った。心が動揺しかけたからだ。
「しかし、僕は過去を持っているので言えなかった」と声を落された。
 私はとても淋しかった。岡田さんなんで早くそれを言って下さらなかったの……と心の中で岡田さんをなじった。

またある時は楽屋で岡田に〈入江さん手紙書いてるの? 道ちやんはいゝな!〉と声をかけられ、入江は動揺のあまり岡田に出すコーヒーに砂糖を入れ忘れたと書いている。
当時岡田はすでに妻帯者で愛人(岡田茉莉子の母親となる田鶴園子)があり、入江は田村と内縁関係に入っていた。
少なくとも入江は岡田が独身ではないことを知っていたはずだし、曲がりなりにも田村という相手がいるにもかかわらず砂糖を入れ忘れるほど動揺するのは迂闊すぎる。
もっとも、岡田が女性を口説くのは病気みたいなものだそうだから入江に対してもどれだけ本気だったかわからない。
岸松雄は〈いくら華族の出だからといって、男を見る目があまりになさすぎる。そこが入江らしいのかも知れないが。〉*1と評しているが、あらゆる俳優仲間から一度は口説かれ、共演することが俳優のステータスになったとまでいわれる入江の結婚相手が、自身の人気に傷がつくことを恐れて籍も入れてくれず、妊娠すれば秘密裏に堕胎させる男だったことを考えてみれば同意せざるを得ないのである。

*1:岸松雄『映画評論家 岸松雄の仕事』(ワイズ出版 2015年)

岡田時彦「時彦戀懺悔」

『漫談レヴィウ 徳川夢声岡田時彦古川緑波集』(1929年 現代ユウモア全集刊行会)

岡田時彦は当時から名文家と謳われたほど味わい深いエッセイをたくさん書いている。
本作において、徳川夢声古川緑波といった優れた随筆家と並んで収録されたということはその文章力を認められている証左といえる。
作品は5編収録されているが、唯一の創作である「偽眼(いれめ、と読む)のマドンナ」は岡田時彦名義で発表されたもののその実渡辺啓助の代作だったことが現在では有名である。
当時は"映画俳優が小説を書く"という触れ込みが一種の流行りだったらしく、鈴木傳明名義で横溝正史が代作したものもある。
岡田が自分でエッセイを書いて発表するようになってからは、南部僑一郎が時々代作をしていたと証言している。
それによると岡田は代作したものまで原稿料をせびってきて困ったらしい。
とにかく金にうるさいことで有名だった岡田時彦、この作品ではどうだったのだろうか。

「時彦戀懺悔」は簡単にいうと岡田時彦の女性遍歴である。
書き出しには〈十八の年の夏〉とあるので、岡田が本名の高橋英一名義で大正活映に参加した時期になる。
本編では大正活映ならぬ〈東洋活動〉と書かれており、そこで人気女優の〈香山美樹子〉、作家の〈神崎十一郎〉と出会う。
わかる人にはすぐわかると思うが葉山三千子と谷崎潤一郎のことである。
他にも今東光佐藤春夫と思われる変名が登場する。
佐藤春夫は岡田の随筆集『春秋満保魯志草紙』の装幀を担当しており、その点でも繋がりがある。
物語の性質上実名を使うわけにはいかないにしてもいかんせんバレバレの変名、今東光など葉山三千子に怪文書を送りつけていたことが書かれており不名誉極まりない扱われ方をしている。

『元々大切なことだし、あたし何も今直ぐに御返事を聞くわけぢやないけれど、それにあたしとしたところで、よく考へていたゞいた上での御返事の方が好ましいに相違ないのですけれど……』
 ――空は星明り、海は暗く遥か。
 口説の奔流に乗つて、僕はたゞ快く酔つてゐました。さうしてやがて、いつの間にか僕の掌に重ねられてゐたお末の両手を僕がガツチリと握り返したからと云つて、どんな神様も決してお咎めにはならなかつたと思ひます。

 岡田の書く地の文には素人らしい冗長さ(とにかく一つの文章が長い)がありながらも、時折ぶつかる叙情味溢れる文章には目を瞠るものがある。
このあと童貞卒業を告白しているのも驚きだが、そこからかなり際どい描写が出てくる。
〈彼女は至極物慣れた手際で僕の×××、×××××××××くれたのです。〉といった具合である。
演出で伏せ字にしたのか(それを狙った探偵小説もある)検閲の手で伏せ字にされたのかわからないが、愛人を作ったり性病にかかったり、仮にも映画俳優の二枚目スターがこんなことを書いてよかったのか心配になってくる。

『何ぼ畜生やかて、うちがあれほどイヤや云ふといたことを何も殊更せんならんことあらへんやろ。おまけに男同士でさへ秘さんならん所を……』
『馬鹿ツ』
『あんたが云はんかて馬鹿はよう知つてます。馬鹿でなうて誰があんたみたいな甲斐性なしを世話します? しやうもない、男一人前にもなつといて自分一人食ひつなぎも出来んとやう口幅たいことが云へたもんや。』
『馬鹿々々ツ。』
『――あの畜生どないしたろ。犬殺しに頼んだかて腹は癒えへんし、蹴つて蹴つて蹴殺したろかしらん。』

流れるような関西弁にはまるで『卍』でも読んでいるかのような感覚があり、さすが谷崎潤一郎の弟子といったところ。
この引用文の時点では葉山三千子と別れ、二人目の〈富田由良子〉なる女性と同棲している。
きっとこの女性にもモデルがいるのだろうが今となってはわかりそうもない。
葉山三千子と同様この〈富田由良子〉もとんだ食わせもので、もし最初の時点でいい女性と巡り合っていたならばもうちょっとまともな恋愛観を持てるようになっただろうにとつくづく思う。

大正活映の第1回作品である『アマチュア倶楽部』(1920)のフィルムは関東大震災の被害で失われてしまったといわれている。
岡田はこの撮影時の思い出を「ぐりいす、ぺいんと懺悔」と題したエッセイに書いている。
勘当同然で家を飛び出した高橋英一青年は谷崎潤一郎への義理に引きずられるままに活動役者になり、行きがかりで『アマチュア倶楽部』の撮影に参加する。
ところがロケーション地が当時高橋一家が住んでいた鎌倉になってしまった。
あれほど活動役者になったことを周囲に知られないよう約束したのに見物人は近所の顔見知りばかり、ただでさえカメラの回る音にあがりっぱなしの上に夏の暑さも手伝って冷や汗が止まらない始末であった。
映画史上においてエポックメイキングとなった作品ではあるが、彼の名誉のためにもこのまま発掘されないほうがいいのかもしれない。