柳の下に猫は2匹いない

戦前日本映画史ネタの覚え書き

光喜三子に関するあれこれ

平凡社が1929年から全10巻で出版した『映画スター全集』の第6巻に高田稔の特集がある。
その中に掲載されている当時4歳(撮影時)の長女は前妻との子供であり、再婚した光喜三子との子供はいないと思われる。
高田は帝国キネマから東亜キネマへ移籍した頃(1924~1927年)に原駒子と恋愛事件を起こしている*1ので、前妻とはその事件ののちに離婚、長女も母親側へ引き取られたのだろう。
以下は『芝居と映画 名流花形大写真帖』(大日本雄弁会講談社 1931年)に記載された喜三子のプロフィールである。

本名太田きく子。大正元年千葉県木更津に生る。中等教育全課を家庭教師より授けられ、東京青山女学院に於て英語を専攻すること二年。映画界へ志し市川猿之助弟子格として昭和五年夏松竹蒲田に入社。「ザツツオーケー」に初出演、「荊の冠」等の作あり。体重十三貫八百目、身長五尺二寸八分。趣味は手芸とダンスと云ふ蒲田の新人。

デビュー作となった『ザッツ・オーケー いゝのね誓ってね』(1930)のフィルムは現存しないが、主題歌(といっても歌の流行に便乗して映画化されたようである)の「ザッツ・オーケー」はCDで聞くことができる。
〈いいのね いいのね 誓ってね〉という河原喜久恵の歌唱に〈OK OK ザッツOK〉となんとも間の抜けた男性の合いの手が入る。
この声の主が誰だかわからないのだが、河原喜久恵と共にクレジットされているコロムビア・ジャズ・バンド(当時はこれでもジャズだったのだ)の一員だろうか。
間奏にリストの「愛の夢」を挿入した、当時としては凝った趣向の曲だと思われる。
ちなみに、「OK」という俗語が日本に普及するようになったのはひとえにこの曲の流行のおかげだそうだ。

 光喜三子は松竹の重役の娘で、一年前に入社したばかりだが、早くも準幹部に昇格している。親の威光を鼻にかけ、わがままにふるまうので、内部の評判はすこぶる悪い。(中略)手を焼いていると、喜三子は松竹の男優高田稔と恋愛関係にあることがわかった。そのために仕事をおろそかにしているのだった。

古川薫『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』(文春文庫 2004年)

喜三子は『マダムと女房』(1931)の撮影中に高田と恋愛事件を起こし、女房役をボイコットしている。
この状況を仮にも同じ会社で働いている高田が知らないはずはないのだが、本作が公開された1931年の8月から一ヶ月後に不二映画事件が起こっていることを考えると、退社に向けて水面下で行動していたのだろう*2
喜三子の代役には田中絹代が打診されたが、準幹部の喜三子に対し絹代は幹部の地位にあり、いわゆる格上が格下の代役を務める事態は前代未聞だった。
まだ手探り状態で結果がどう転ぶかもわからないトーキー映画、もし失敗すれば絹代の女優としての名声が地に落ちるかもしれない。
出演を渋る絹代に監督の五所平之助の必死の説得は功を奏した。
本作は無事に成功を収め、彼女の甘い声音が好評を博したのは周知の通りである。

こうした伝記小説はどこまで事実に即しているかの判断が非常に難しいところがある。
本書の記述を全て真に受けてしまうのは作者のスタンス*3にも反する(そもそも田中絹代をストイックに描こうとしすぎるあまり、他の俳優に対する目線が刺々しすぎるきらいがある)ので、資料としては簡単な事実関係の確認だけに留めておいたほうがいい。
ただ上記のプロフィールに〈市川猿之助弟子格〉とあるように、入社の経緯に何らかのコネはあったと思われる。

高田と結婚後、家庭の人となってからも雑誌のインタビューには度々答えている様子がある。
手元にある『週刊朝日』1936年3月号(こちらにも〈猿之助のアツセンで蒲田へはいつた〉と紹介されている)では高田との家庭生活を語っているが、見出しには喜三子の名前がなぜか〈百合子〉となっている。
仮名かと思いきや文中にはばっちり本名が出てくるし、「光喜三子」の芸名や経歴も書かれているので女優時代の過去を隠したいわけでもなさそうだ。
そうなると単なる誤植の可能性があるが、だいたい6年前に喜三子が蒲田へ入社してきたと書いてあるにもかかわらず結婚して6年と書くくらいだから、正確さを求めるほうが間違いかもしれない。
この記事で参考になることといえば飼い犬の名前くらいのものだった。

追記(2020.01.03)

高田稔と光喜三子の結婚の顛末について、調べていくうちに大幅な誤謬(希望的観測に基づく思い込み)がありましたので近々書き直したいと思います。気力があれば…。

*1:猪俣勝人・田山力哉『日本映画俳優全史 ―男優編―』(現代教養文庫 1995年)

*2:〈そのうちに高田の行動があやしくなつて来た。撮影に遅れる。勤務状況がよくない。僕の経験でいうと、俳優がいわゆる撮影開始以前にちやんと規則正しく入つて来て、メーク・アップをして、衣裳をつけてちやんと待つているようならば、伸びもするし、安心して仕事をまかせられるけれども、ぎりぎりに入つて来たり、ちよつと遅れて所長にあやまりながら仕事をするようになると、そろそろ不平があるとか、何かあることが分る。〉城戸四郎『日本映画伝 ―映画製作者の記録―』(文藝春秋新社 1956年)

*3:〈そこで稗史つまり小説であるという立場にすがっていえば、本書は厳密な実録資料として通用しないことを断っておくのがよいと思う。〉古川薫「文庫版のためのあとがき」『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』(文春文庫 2004年)